1995年、初めてのPV監督。

2016.4.11


今となってはMV(ミュージックビデオ)って呼ぶ事が多いけどCDの宣伝用ビデオなんで

その当時はPV(プロモーションビデオ)って普通に言ってた。

CD+DVDなんていう形でPVも商品の一部になったり、iTunesで売られたり

「宣伝用の映像じゃなくて作品なんだ」みたいな風潮で呼び方が変わっていったのかな?

今となってはどっちでも良いんだけど。

PV初監督、それはHi-STANDARDのGrowing Up。

当時、スペースシャワーTVの子会社でSEPという大きな映像制作会社にいたので、周りのディレクターが少しずつPVを作り始めていて「PVがカッコイイ」という雰囲気になっていた。

自分はPUNK ROCK TVっていう番組作りに満足していたんだけど、そういった環境もあって、少しずつPVも作ってみたいなぁという漠然とした思いが湧いてきていた。

そんなある日、この初めてのPV仕事は直接メンバーから依頼されたんじゃなくて、当時の所属レーベルTOYS FACTORYからSEPに正式なPV制作のオファーで来ていた。ハイスタのメンバーはすでに仲良くなっていたんだけど、きっとメンバーも「PVって何?」って感じだし、僕も「PVってどうやって作るの?」って時代だったので自分達でPVを作り出す発想なんて無かったと思う。

でも、ここから面白い展開が始まります。

自分のいる会社にハイスタのPV依頼が来たのに、すでに有名どころのPVを作っていたプロデューサーやディレクターは誰も興味を持たなかった。きっと他の人が手を挙げていたら、新米ディレクターの僕まで話が来なかったと思う。けど、ラッキーな事にPVなんて作った事のない自分のところに「PUNK好きだよね?やってみる?」って具合に話がきて「もうメンバーとは番組でも知り合っているので、是非やらせてください!」と言って僕のPV初監督が決まった。

メンバーとの打合せ。

渋谷にあるレコード会社に行くと、いつもの「よろしくね!」って感じで打合せが始まった。ただ、話の内容は「どの曲をPVにするか?」だった。「どの曲が良いと思いますか?」って聞かれて、内心「えっ、決まってないの?どの曲でも作りたいよ!」って思った。

結局、このアルバムからは3曲のPVが作られるんだけど、1本目はGrowing Upに決まった。

みんなでアイデアを出しながら、あの時はEPITAPH RECORDSからリリースされるバンドのPVに影響されまくっていたので、とにかくNOFXのLeave It Aloneみたいなビデオにしたかった。

NOFX- Leave It Alone

撮影は下北沢LOFT。

内容はライブハウスでの演奏シーンで観てもらえば分かると思うけど、お客さんはバンド仲間に来てもらった。なんと、みんなへのお礼はビールとマックのハンバーガーだった。バーカウンターに座って、ちょっとふざけて歌うシーンも撮った。あと、GROWING UPのアルバムジャケットで使われている、ブロックで出来たライブハウスと人形を会社に帰ってからコマ撮りした。2時間くらいひたすらコマ撮りして出来た映像を再生したら3秒で終わった時には愕然とした。

そんなこんなで始めて作るPV。

一生懸命考えて、撮影して、編集した。

ついに完成。

まず、会社の小さな部屋で1人ひたすら編集をする。当時はパソコンで編集は出来なかったので、再生用のデッキと録画用のデッキの間にコントローラーを繋いだテープの編集機でこれが当たり前だった。

ここで全体のカット割りを自分で作って、出来上がったテープを大きな編集室に持ち込んで色や質感、エフェクトなどの作業をして完成させる。

大きな編集室に入る日。

知らないスタジオで知らない人と作業するし、若造が生意気に10歳くらい年上の編集スタッフに指示を出さなきゃならないから緊張してたのを覚えている。

当然、YouTubeもないから、あーだこーだ口で説明して何とか思っていた色になった。

でも何かが違う。テレビで観るPVと比べて映像が凄く生っぽい。例えて言うなら、世の中のPVは映画みたいな質感で、自分のはMステなどテレビで流れてる様な生っぽさがある。

何でだ!

スタジオを使える時間も少なくなってきてる。

1人で来てるから助けてくれるスタッフもいない。編集スタッフに聞いて「こいつ何も分かってないな、素人が!」って舐められるのもヤダ。

やばい、どうすれば良い?

みんなどうやってるんだ?

冷や汗をかきながら考えてる時、ある事を思い出した。

先輩ディレクターの編集に立ち会うと、みんな「エフをかけて」って指示を出していた。何のこっちゃ知らないが良く聞く言葉だった。

もしかしたら、この「エフをかける」という魔法の言葉を使えば、みんなと同じ映画みたいな質感になるんじゃないか、生っぽいダサい質感からサヨナラするんだ。でも、これで違ったり「はぁ?何言ってんのコイツ」みたいな事になったらお手上げだ。そんな事を考えながら一か八か

「あのー、エフかけてもらえますか?」と言った。

編集スタッフの返事は「了解」だった。

魔法の言葉が通じた!

そしてエフをかけた後に再生された映像は映画の様な質感だった!

エフとはFILM効果の頭文字のエフで、簡単に言うとテレビなどのビデオ撮影は基本1秒のコマ数が30コマで出来ていて、フィルムでは1秒のコマ数を変えて24コマで撮影するので、コマ数を減らすと生っぽさが無くなり、当時ビデオで撮影された場合は編集でコマ数を減らすエフェクトを使い、これを業界用語で「エフをかける」という。

いま考えると不思議なんだけど、誰も作り方を教えてくれなかったし、自分も聞かなかった。

色んなPVを観てこんなビデオを作りたいって影響は受けたけど、真似はしなかったしやり方も自分たちで作り出した。それが自分達のスタイルになったんだと思う。(分かんない事は聞いた方が早いけどね)

後日談としては始めて作ったこのPVがMTV JAPANで流れて、クレジットのバンド名の下に自分の名前が書いてあった時は嬉しかったなぁ。

そして社内ではプロデューサーが「パンクバンドなのに、こんなポップなビデオでええんか?」って言ってきて「これからの時代はこれなんです!」って言ったのを覚えてる。

こんな感じでPV監督としてのキャリアがスタートしました。

ちなみにディレクター名のUGICHINはウギチンと読みます。

苗字じゃないです。

名前がウギで、日本に帰化するまではチンという韓国名があったので、それを逆にしただけです。

当時の先輩が付けてくれました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/UGICHIN

あと、パンク系の仕事が多いので初めての方に会うと「めちゃめちゃパンクスの人が来ると思ってました」と言われる事が良くありますが、こんな感じです。

たぶん、変な名前だしモヒカンに 鋲ジャンで恰幅の良いイメージだったのかな?

オジサンの写真載せてもアレなんで若いときの写真です。

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27歳くらい、どこかの雑誌から。

COLUMN

PUNKとの遭遇。Hi-STANDARDとの出会い。

2016.3.10


随分と間が空いてしまったけど、今回はパンクロックとの出会いから始めようと思う。

僕が通っていた学校は東京の外れで、同じ敷地内に中学と高校があり服装や髪形など自由な校風が売りだった。

中学生の僕は校内ですれ違うパンクスの先輩達を見て「カッコイイ!」(モヒカンでMA-1にブリーチされたジーンズとラバーソール)と、いわゆるビビっと電気が流れる様な衝撃を受けてPUNKに目覚めた。

それから先輩達にくっ付いては服装を真似て修行の様にウォークマンでDISCHARGEを聴く毎日だった。

ある日、アメリカのロサンゼルスに住む親戚からお土産でTHE DICKIESのレコードが送られてきた(母親がパンクのレコードって頼んでくれたらしい)。父親のレコードプレーヤーを譲り受けて聴いた、そのバンドは凄くポップでリズムが早くて変な声だったけど、親しみを感じた。

それからは先輩からハードコアやサイコビリーなど色んな音楽を教えてもらったけど、その中でもアメリカのポップなPUNKが好きになった(ポップさで言うならイギリスのTOY DOLLSもコピバンするくらい好きだった)。

高校生になるとスケボーを始めて、下北沢のVIOLENT GRINDというスケートショップに入り浸っていた。

そんなある時、お店で流れた音楽に耳を奪われ「これ何ですか?」と聞くと、「BAD RELIGION」だと教えてくれた。

哀愁漂うメロディに早いビート、声も良かった。そこからNOFX、PENNYWISE、THE OFFSPRINGなどEPITAPH RECORDSのバンドにはまっていった。

前回の続きに話を戻すと、そんなパンク好きの新米ディレクターだった僕はPUNK ROCK TVの撮影でHi-STANDARDと出会った。

1995年、NOFXのジャパンツアーで渋谷クラブクアトロのライブを撮影する事になった時、ヒカル君がオープニングアクトのハイスタも撮影しようと持ち掛けてきた。勿論、お互いにOKという事で撮ることになった。

その時には撮影スタイルも仲間を連れてHi-8のカメラ3台とPA卓からラインアウトの音をMDレコーダーで録音するなど成長しました。

その日のライブはハイスタから会場のテンションは高く、ステージ前で撮影していた僕は夢中でメンバーにカメラを向けて、あっという間に時間が過ぎた。

会社に戻り編集を始めた時、改めてハイスタの楽曲の格好良さ、同世代がステージで暴れまくる心地良さ、とにかく色んな感情が重なってハイスタの魅力に取り憑かれ、何か始まる様な高揚感と、自分は彼等を撮影したい、一緒に映像ディレクターとして作品を作りたいという気持ちになった。

早速、当時のマネージメントに電話して「番組で紹介したいので資料をください」というと難波君の電話番号を教えてくれた。当時は携帯電話が普及してなかったから自宅の番号だったし、何でも自分達でやるDIYなスタイルが当たり前だった。

そこからHi-STANDARDとの時間が動き出しました。

なんと、その時のライブ映像がYouTubeに上がってたので貼っときます。

次回は何時になるか…ですが、ミュージックビデオの話をしようと思ってます。

COLUMN

PUNK ROCK TV#1

2015.5.1


コラム第2回目となる今回は1995年4月にスペースシャワーTVの番組内に月一で始まったPUNK ROCK TV(前回のコラム参照)について書こうと思います。

さぁ、ついに大好きなパンクだけを紹介する番組を始められる事になった当時24才のウギチン(気持ちも言葉使いも24才に戻します)。あの頃はGreen Dayなんかが有名だけどアメリカのEpitaph RecordsからリリースしていたBad Religion、NOFX、PENNYWISE、The Offspring、RANCIDなどが大人気で他にもNYハードコアのSICK OF IT ALL、Murphy’s Lawなどアメリカのパンクが完全にキテた。音楽だけじゃなくスケートボードやファッションなどストリートカルチャーとして盛り上がり日本でも渋谷のレコードショップ”CISCO”が新たにラウド店を出すなどパンクロックの情報が街中に広がっていった。そんな中PUNK ROCK TV#1はオープンしたてのCISCOラウド店の店内でヒカル君とそこで働いていた小松君(COKEHEAD HIPSTERS)でオープニングトークを撮影した。そしてPUNK ROCK TVでは毎回、来日するバンドや国内バンドのライブを撮影して紹介するスタイルをとっていたんだけど最初のバンドは渋谷ON AIR WEST(現O-WEST)で行われれるSICK OF IT ALLの来日公演に決まった。PUNK ROCK TV初のライブ収録だから気合いが半端なかった。

しかし、しかーし!当時のオレはスペースシャワーTVの生放送番組でADをやっていて、その仕事を迷惑かけずにやった上で好きな事をして良いという条件だった。カッコ良く言うと二足のわらじなんだけど、当時の生放送スタッフはチーフディレクターとオレと入りたてのアシスタントの3人という少数精鋭。PUNK ROCK TVは番組MCのヒカル君とオレの2人という超少数精鋭。これ以上人数は減らせないというギリギリのスタッフで制作していた。週一の生放送は本番が終わると次の企画会議→取材→VTR制作→資料作りといった感じであっという間に次の放送がくる。いくらやりたい事をするからといって、その仕事に穴を開ける訳には絶対にならない。話を戻すと記念すべきPUNK ROCK TV初ライブ収録の日、他に頼めるスタッフも居ない中、夕方から生放送のVTR編集をする事になってしまった。編集が終わってからだとSICK OF IT ALLのライブスタートに間に合わない「やばい!どうする?どうしたら良い???」知識も経験もないオレが出した答えは「ヒカル君に撮ってもらう」という暴挙だった。当日、リハーサル時に会場へ行き2階席にカメラのセッティングを済ませヒカル君に「このボタンを押せば録画されます!ライブが始まる前にこのボタンを押してください!」と言って会場を出た。「もしかしたらライブスタートが遅れたりフロントアクトもあるし、早めに編集終わって間に合うかもしれない」そんな事を考えながら生放送の仕事を終わらせ速攻で渋谷に向かった。

結論から言うと「もしかしたら」なんて事はなく会場は熱気ムンムンでライブは始まっていた。2階席のヒカル君の元へ駆け寄ると録画ボタンはバッチリ押されていて大盛り上がりのSICK OF IT ALLライブは映像に納められた!

パンクバンドのライブ映像が観れる番組がほとんど無い時代、とにかくカッコイイ音楽を映像で観てもらいたいって思いで始まったPUNK ROCK TV の記念すべき第1回はこうして放送された。

はい、ここで色んな事を学びました。

まずはスケジュール管理、コレ絶対!ただし「出来ません」じゃなくて若いうちは何としてでもスケジュールぶち込んで全部やりましょう。次に音声の事を全く考えてなくてカメラで録音された音は割れまくりで使えず。CDの音源にライブ映像をエフェクトかけまくって合わせるという苦肉の策で対応。前向きに考えたらPVみたいな感じ!次からは録音機材(当時はMDレコーダー)を導入しました。そして、1台の定点カメラのみだと臨場感が出ないので3台のカメラで撮影する事にしました。後にこれは、1台でもカッコ良く撮れるという領域に辿り着きました。

こうやって改めて考えると当たり前の事が何ひとつ出来てないですね。でもね、それで良いんじゃないかと思うんです。最初から方程式に当てはめて完璧を求めるよりも、気持ちひとつで飛び込んで上手くいかない中から工夫してオリジナルな物が生まれるんじゃないかと。英会話も一緒、ちゃんとした文法で喋れないからってモジモジするよりも単語だけでも言って気持ちが伝われば良いんです。そりゃ長くやってると経験値で何とかなる事もあるけど、新しい事にチャレンジする時は今でもこの精神です。

こんな感じでスタートしたPUNK ROCK TVは自分の物作りの基本でありライフワークとして続いてます。

さぁ、次回はPUNK ROCK TVと同じくらい自分にとって大きな存在のHi-STANDARDとの出会いについて書こうと思います。

COLUMN

映像のディレクターを始めて20年!?

2015.4.16


初めまして、VAMの企画運営をしている映像ディレクターのUGICHIN(ウギチン)です。
簡単に自己紹介しますと、1971年東京生まれの44歳(結構オッサンですね)。1995年にPUNK ROCK TVという番組をスタート、同年にHi-STANDARDのミュージック・ビデオ「Growing Up」を演出し、その後は色々なアーティストのMV・DVD・番組を作ってきました。(http://ja.m.wikipedia.org/wiki/UGICHIN)
このコラムは今まで演出してきた作品やその制作エピソードを20年の節目という事で(飲みの席でしか話さなかった様な事ですが)ちょっとずつ紹介します。知識も経験もないただの若僧がPUNKが好きってだけで今まで続けてるのは何故なのか?想い返してみようと思うのでお付き合いください!

 

 

「この仕事を始めるキッカケ」
まずは高校卒業してバイトしながら「将来どうしよっかなぁ」なんて考えてる時、友達の家で何気なく見た雑誌(STUDIO VOICEだったかな?)にジム・ジャームッシュっていう映画監督の記事が載っていました。映画監督っていったらスピルバーグとか黒澤しかイメージに無かったから、この白髪でロックバンドのメンバーみたいな人も映画監督なんだ?と凄く興味が湧いて「この人みたいになりたい!」って漠然と思った。それからレンタルビデオ屋(当時はもちろんVHS)で「パーマネント・バケーション」と「ストレンジャー・ザン・パラダイス」という作品を借りて観てみると映像はモノクロで音楽やファッションが格好良くて、派手なストーリーじゃないけど若者の感覚が詰め込まれててドキドキした。それまで映画といったらデートで流行りのを観に行く程度だったけど、いわゆるアメリカン・ニューシネマと呼ばれる作品や面白そうなタイトルの映画を観まくって家族や友達には「俺、映像の仕事してみたい」って話す様になった。その後、知り合いから開局間もないスペースシャワーTVを紹介してもらって「何の会社かわかんないけど大好きな音楽と映像が両方ある仕事なんて最高じゃん」っていう事で働き始めました。

 

 

「始めて作った番組」
自分がディレクターとして最初に作ったのは1995年にスタートして今でも不定期だけど続けているPUNK ROCK TV(スペースシャワーTV)という番組でした。この時24才。中学2年生の時にPUNKの洗礼を受けてファッションも音楽もPUNKが好きになってバンドやったりライブ観に行ったりしていたので会社の人達にもPUNKが好きですってアピールしてたら先輩が月に1回30分の枠をやりたい事やれと与えてくれた。そのタイミングで既にスペースシャワーTVでは出演経験があったヒカル君(BOUNTY HUNTER)を紹介してもらって2人でPUNKの番組を作る事になり、ヒカル君が「タイトルはPUNK ROCK TVにしよう」と言って番組が生まれました。このタイトルはシンプルだけど素晴らしいタイトルだなぁと今でも思います。

これが仕事始めて3年目、やっぱり社会に出て納得出来なかったり思った様にいかない事あると「辞めちゃおうかな?」って考えた事もあったけど、こんな出会いが待ってたりするし、若い時にやりたい事が見つかったなら続けてみるべきだね。それがキッカケで20年も映像作ってるんだから「石の上にも三年」とは良く言ったものです。

 

 

今回はここまで。
次回は今では考えられないやり方で制作されたPUNK ROCK TV第一回目の話をしてみようと思います。

COLUMN

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